福田村事件は、1923年(大正12年)9月6日に千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)周辺で起きた集団暴行・殺人事件だ。関東大震災の混乱で流言蜚語(りゅうげんひご)が飛び交った結果、「朝鮮人を取り締まる」として結成した自警団により、香川から薬の行商で来ていた日本人事業者たち15名が襲われ、9名が虐殺されたのである。
「あの福田村事件をふざけたタイトルで語るな!」と怒られそうだが、振り上げた拳を下ろしてほしい。あくまで史実をもとにしたフィクションであるし、エンタメ作品として仕上げられている。歴史や人間に向き合った深い考察は他の方に譲ろうと思う。
瑛太はなぜ暴走し、余裕をかましていたのか?
薬の行商団の親方である沼部新助(永山瑛太)は、福田村で船頭をしている田中倉蔵(東出昌大)と荷物の運び方をめぐって言い争いになる。「俺たちと荷物を含めて何とか1回で渡ってくれ」と依頼する新助に対して、「無理。もしかしたら4往復は必要かも」と倉蔵が拒絶するのだ。
どう見ても無理なオーダーを出しているのは新助なのに、「ちゃんと仕事しろコラ!」と激怒しはじめる。ついさっきまで「団子でも食って待ってろ」と子分たちに駄賃をやっており、どちらかといえば上機嫌に見えたのに、一体どうしたんだろう。朝鮮人が虐殺されていることで、同じく差別される側の身としてはフラストレーションがたまっていたのだろうか。
騒ぎは大きくなってしまい、新助らは「言葉がおかしい」という理由で朝鮮人扱いされてしまう。集団心理が加速した村人らは今にも襲いかかってくる状況なのに、新助は動じない。倉蔵が「落ち着け!日本人だったらどうするんだ!日本人を殺すことになるんだぞ」と村人を諭すと、
「何だそりゃ?朝鮮人だったら殺していいのか?」
等と真理をつく。
彼にとって差別は他人事ではない。攻撃の対象が、部落出身である自分たちに拡がってもおかしくない状況なのだ。突如として倉蔵に噛み付いたのは、冷静を装いながらも押さえていた村人らへの苛立ちが爆発したのかもしれない。
だが、私には解せないことがある。「彼らは日本人である可能性を否定できない」「駐在所の巡査が戻ってくるまで手出しはしない」という空気感が成立していたのに、新助は朝鮮飴売りの女子にもらった朝鮮産のセンスを出して顔をあおぎ、余裕綽々の態度をかますのだ。
結局、このセンスがきっかけで新助をはじめ9名が虐殺された。出産間近の妊婦は川の中まで追い詰められ、竹槍でふた突きされると、ショック死したように流されていく。「差別がなくなる世界はきっと来る」と願っていた藤岡敬一(杉田雷麟)は、「僕は何のために生まれてきたんだ」と悲観し、串刺しにされて絶命した。余談だが、彼の顔立ちや知的なキャラクターは、映画『GO』に登場したジョンイル(細山田隆人)にどこか似ている。
新助はセンスが朝鮮産であることを忘れていたのだろうか? あるいは、日本人である俺たちを殺しはしないとタカをくくっていたのだろうか? いやもしかすると、バカな村人らを挑発したかったのかもしれない。
私としては、「村人の誰かが新助の荷物チェックをしてセンスが見つかる」展開のほうがストーリーとして自然ではないかと思う。それなら彼に落ち度はないし、物語としても圧倒的に村人ら自警団が悪く見える構成になる。
なぜ有能な親方が、最後の最後でチームを全滅に追い込むほどのミスをやらかしてしまうったのか。疑問でならない。
なお再び余談だが、新助の頭に釜を突き刺した福田村の女性(夫が朝鮮人に殺されたと思い込んでいるデマの被害者)は、どう見ても韓国・朝鮮の方に多い顔の作りをしているように思う。当時はあのような顔つきの人も多かったと思うけど、意図的なキャスティングなのだろうか。
女性に誘われたら「ごっつぁんです!」の倉蔵役を引き受けた東出の凄さと色っぽさ
東出昌大は今『世界の果てに、ひろゆき置いてきた』で再評価されている。異文化に対する理解や節度のある振る舞い、狩猟生活で培ったたくましい生活力、主役で年上のひろゆきを立てる好青年ぶりが超好評で、ひろゆき自身も「一緒にいてすごく楽だった」と語っている。
また、ひろゆきは東出の人物像について、こうも評している。
「目の前に困っている人がいたら助けるのは当然だと思っている人」
「すごく悪いことでも、お願いされて納得したらやっちゃいそうな人」
つまり、目の前の女性が困っていたり悲しんだりしていて、その慰みに夜の合体運動を求められたら、「それを断るのは間違い」だと思う性格らしいのだ(あくまでひろゆきの感想です)。
……今回、東出が演じた倉蔵はまさにそんな男じゃないか?銃後の妻である咲江(コムアイ)と恋仲になり、静子(田中麗奈)に誘われると秒で「いいんですか?」と船の上でおセッセをはじめてしまう。咲江も静子も浮気の理由は「寂しいから」であり、倉蔵はそれに応えただけなのだ。
よくもまあ、こんなに自らの過ちを彷彿とさせる役柄を引き受けたものである。もちろん、あの不倫を隠そうとしても隠せるわけがないため、開き直っているというか、受け入れているのだろうけど。
東出がやらかしたことに未だに立腹している人も多いようだが、こんなツイートがなくても「でっくんってそんな人だったね」と思い出すことができる役柄なのだ。
ただ、彼の色気は半端ではない。元テレ東で現アベマの高橋弘樹Pは東出を「洗濯しているだけで絵になる男」と絶賛したが、倉蔵も船を漕いでいるだけで、いや背中を見せて佇んでいるだけで色っぽいのだ。恐るべし、東出昌大。私はあなたの大ファンになりそうである。
ご臨終の柄本明の顔に婿ヨメがおっぱいを押し付けたのはなぜ?
井草貞次(柄本明)は、「日露戦争帰りの元兵隊」と嘘をついてしまったせいで村で一目置かれる存在となり、以降引くに引けなくなった悲しい爺さんだ。
しかし、貞次に同情する余地は1ミリもない。なにせ、息子の茂次(松浦祐也)の嫁・マス(向里祐香)に手を出し、子まで産ませていたのである。茂次が倉蔵に「このクソ間男!」「嫁が浮気してるのに戦争なんて行ってられるか!」とブチ切れて喧嘩になるシーンがあるが、茂次が怒るのに無理はない。彼は浮気された側の悲しみを誰よりも知る男なのである。
貞次は自分のホラを告白し、ついでに息子の間男だったことも認めると、ショックが大きかったのか卒倒。そのまま帰らぬ人になってしまう。
ここでマスが謎の行動に出る。着物を脱いでおっぱいをポロリと出し、遺体となり横たわる貞次の顔に押し付けながら嗚咽するのである。
なにやってんの?
「あの時代を描くのに村人たちの性事情を描かないのは不自然」という見解をどこかで読んだが、まあ100歩譲るとしても、本当におっぱいを出す必要性は全然ないと思う。着物のままでもいいじゃん。水野美紀がフルヌードを披露する『恋の罪』には遠く及ばないが、邦画には謎に女優が脱ぐシーンが多いように思える。
ちなみに、おっぱいに顔を押し付けたのは、貞次が好んだプレーではないかと邪推している。貞次は大嘘つきであり、息子の嫁を寝取る間男であり、おっぱい星人なのだ。
クライマックスまで多少長いが退屈はさせない素晴らしい作り
私が福田村事件でどうしても言いたかったことは以上だ。上映時間約2時間のうち、本題となる騒ぎにいきつくまで1時間30分くらいかかりダレる人もいるだろうが、決して退屈はさせない展開だ。
真面目な考察はこの方(https://filmaga.filmarks.com/articles/264518/4/)などがされているので、こんな駄文を読むより、こっちを読んだほうが時間が有効だと思います。